昨年の震災後、ボクも「これ」を想像してしまったから、今の日本においてこういった作品を鑑賞するのが辛い時があったりします。
「メランコリア」
【監督&脚本】
ラース・フォン・トリアー
【出演】
キルスティン・ダンスト
シャルロット・ゲンズブール
アレクサンダー・スカルスガルド
鬼才ラース・フォン・トリアー監督が、一組の姉妹とその家族を通して世界の終わりを描く衝撃のドラマ。
巨大惑星(メランコリア)の異常接近によって終末を迎えようとしていた地球を舞台に、世界の終わりに立ち会うことになってしまった人々の姿を圧倒的な映像美とともに荘厳な筆致で描き出す。
キルスティン・ダンスト
決して美人女優というワケではありませんが、なかなか雰囲気のある女優さんです。
本作では鬱病患者という繊細かつ重々しい心理状態を体当たり演技で表現していて、M・Jからの脱却に成功しましたね。
カンヌでの女優賞受賞も頷けます。
そもそもラース・フォン・ トリアー監督は、リハーサルをせずに役者さんの即興演技で撮影するというスタンスらしいですが、役者さんの隠れた才能を引き出すのが巧い人です。
美しい音楽や絵画のメタモルフォーゼとしての表現など、彼は知識人としても一流と言ってもいいかもしれませんね。
パンフレットで「鬱を患う人は、人生には悪いことが起こるという事実を既に受け入れているから、ストレスの強い状態になった時、むしろ落ち着いて対応することが出来るんだ」と自身のセラピストから学んだんだそうです。
人は必ず死にます。
それは、逃れられない運命です。
しかし人間は「いつ」「どこで」「どのように」死ぬのかは分かりません。
ですが本作では、それがすべて明確になっています。
オープニングで惑星「メランコリア」が地球に衝突する瞬間、人間はすべて死滅するのだ。
だからこそ、本作はすべてが無意味な世界、すなわち何をやっても劇中の人物に迫りくる死からは、逃れることが出来ないということです。
もしも明日、地球が滅亡すると知ったら今まで感じていたある種の『絶望や不安』がちっぽけに思えて、それどころではなくなってしまうということです。
大きな絶望は小さな絶望を凌駕するのかもしれません。
物語は2人の姉妹を軸にした二部構成となっています。
第一章「ジャスティン(妹)」
開始早々、何度切り返してもカーブを曲がれない、大き過ぎるリムジンが映し出されます。
そこから、観客をイライラ&モヤモヤさせる場面が続いていきます。
その原因は「鬱病」を患ってしまっているジャスティンの存在。
幸せの絶頂であるハズの披露宴の席でも、彼女はどこか浮かない表情をしています。
憂鬱さを抱え込んだ態度が、周囲の人々にも蔓延していく様。
それに耐え切れず、人々はどんどん屋敷から去っていきます…
第二章「クレア(姉)」
美しくも恐ろしい「メランコリア」が迫ってきます。
空を見上げて星を観察するという行為は、本来はロマンチックなもの。
ところが、そんなロマンチックなものに人間が滅ぼされてしまうとはなんて皮肉なことでしょう。
シチュエーション的には『アルマゲドン』のようにも描くことが出来ます。
ですがラース・フォン・トリアーは世界の危機を最小単位で見せます。
屋敷、斜面、そして広大な海…
まさに絵画的な美しさを感じるロケーション。
その地が世界とは隔絶した場所に見えるからこそ、説得力を持たせることに成功しています。

「メランコリア」はどんどん大きくなってくる…
それは死が迫っているということを意味しています。
ですが「メランコリア」は恐ろしいほどに美しい。
ワーグナーの甘美なメロディーと、徐々に大きくなっていく轟音が交錯する中「視覚化された死」が迫ってくる。
たまらなく恐ろしいのに、たまらなく美しい…
ジャスティンは自分をコントロール出来ないだけで、自分にとって「本当の幸せとは何か?」を直感で分かっています。
だからクレアの夫(キーファー・サザーランド)がお金をつぎ込んだ取り引きとして 「結婚して幸せになるコト」や新郎が贈った果樹園の写真にもとんと無関心。
優しい夫や物質的なものでは自分が幸せになれないと知っていたんですね。
「その瞬間」も諦念や恍惚の表情さえ浮かべながら冷静に迎えます。
まるで「私を憂鬱にする人間たち、そしてこの世界なんてなくなってしまえばいい」と「メランコリア」を自らが引き寄せているようにも見えます。
もはや失うものがなくなったジャスティンは一番強い人間でした。
これに対して「絶対に衝突しない!」と思っていたクレアの夫は、想定外の事が起きたら、恐れのあまり妻子を置いて、あんなことをしてしまう最も弱い人間でした。
クレアは思いやりがあって妹の面倒を見るごく普通の人間です。
でも「時々あなたが憎くてたまらなくなる」と言います。
多少人と違っていても、苦しみながらも自分らしくあることを選択し、周りを振り回しても、自分に正直な生き方をする妹に対する『嫉妬』からくる言葉だとも解釈出来ます。
そして、いよいよという時は子供の未来を心配するあまり、恐怖を感じて激しく動揺してしまいます。
完全に「恐れ」に支配されてしまい、魔法のシェルターの中にいても、最後には子供の手を放してしまいます。
ですが恐れのないジャスティンは手を放しません。
子供は魔法のシェルターが守ってくれると純粋に信じてるのでクレアのような恐れを感じたりはしていません。
過去の作品においても、人間の不器用さや傲慢さ、未熟さなどの人間の弱い部分をこれでもかと見せつけ、かつなかなか体感出来ない精神世界を美しい映像と音楽を一体化させ、魅せてくれます。
「この世は地獄で、あの世は天国」という言葉の『死は試練からの解放』という観点から考え、「死=絶望ではない」と結ぶ。
だから監督はこの結末をハッピーエンドだと解説します。
人間は無になることによってはじめて宇宙と(神)と一体化出来るのでしょうか?
この監督は無神論者であるように見えて、実は誰よりも神を求めているような気がしてならないボクなのでした。
【今日の誕生日】
ロベルト・ロッセリーニ (1906年)
ナンシー梅木 (1929年)
本日誕生日の方、おめでとうございます☆
それでは今日も素敵な映画と一杯を…